「お疲れ様です」の仮面

 「お疲れ様です」が宙を舞う。どこに行ってもそれしか見つからない。ずいぶんと遠くに来たものだと感心してしまった。
 はい、こんにちは。ご用件をどうぞ。仏頂面が飛んできて、私の頬が引きつった。私は顔を手で覆い隠して走り去った。私の顔は溶けていた。
 もう死んでやろうと何度思ったか分からない。それでも生きているのだから、褒めてくれてもいいのに。
 ここには何もない。誰もいない。独りだ。孤独とはこんなにも寂しいものだというのは最近知った。でも、一人なら顔は溶けない。でも、一人なら私は存在しない。
 もう死んでやろうと何度思ったか分からない。それでも生きたのだから、ご褒美をくれてもいいのに。
 昔はなんでもあった気がした。どれでも、なんでも綺麗だった。私だって、綺麗な顔をしていた。未来というものを自由に描いていた。
 もう死んでやろうと何度目か思った時。屋上のフェンスに足をかけた時。ふと視線に気が付いて振り返ったのだ。シロツメクサの冠を被った女の子がいた。女の子がこちらを見ているのに気付くと、私の顔は溶けだした。汚く、醜く、液状化した。女の子の顔は綺麗な形を保っていた。綺麗だった。綺麗な私の顔だった。
 その子が昔の自分だと気付いて、私は震えが止まらなかった。真っ先に謝罪の言葉が出てきて、次に許しを請うた。私は顔が重すぎて、もう歩けない。「があああああ」と、獣のような咆哮が飛び出た。
 彼女は何も言わなかった。ただ暗い瞳でこちらを見据えていた。

 そこで目が覚めた。
 私は自宅の二階の、自分の部屋で寝ていた。震える手で頬に触れると、私の顔は溶けていなかった。
 急いで鏡を見ると、綺麗にまっさらな顔がそこにあった。目は無く、口は無く、鼻は無く、眉も無い。それでも見えているし、息はできるし、臭いも分かる。私は泣くほどほっとした。
 携帯を見ると愛する家族からのメールと、大好きな友人から映画の誘いが来ていた。私は一つ一つ大切に読んで、全て削除した。
 好きなバンドのCDがずらっと並んだ棚から、特に気に入っているアルバムを取り出した。高級なコンポにCDを入れて、一番好きな曲だけを何度も流した。
 その間に用意されている朝食の前に座る。クロワッサン、ベーコン、オムレツ、サラダボウルとセイロンティー。それを優雅に食べた。
 曲に飽きると、CDをコンポから取り出してクロワッサンと一緒に食べた。
 朝食を済ませて、とりあえず食器を窓の外に置いた。
 だんだん家具が鬱陶しくなって、机と椅子を窓の外に投げた。コンポをゴミ箱と一緒に燃やした。ベッドも棚も衣装箪笥も鏡も全て窓の外にやった。部屋も私のようにまっさらになった。
 次に床が無性に愛おしくなった。床の角の方をカリカリと引っ掻いて、床を剥がした。威勢よくバリバリと音を立てて床は消えた。床を粉々に砕いて頭から浴びた。全身で床を感じた。今まで散々私が足蹴にしてきた床が、私を足蹴にしていくのだ。おめでとう!
 次に私は自分の部屋の壁を斧で叩き壊した。残骸を集めて、それを抱きしめる。破片が私に突き刺さり、赤く染まる。それでも気が済まない。私は破片が自分の心臓を貫くように調整して、思いっきり抱きしめた。心臓が破れた心地がした。腹が立ったので私は血液を青に変えてやり、綺麗な赤色を汚してやった。
 気が済んだので私は家に帰った。
 自分の部屋に入るとすぐにベッドに横たわる。眠くてやってられない。「お疲れ様です」をリフレインする。くすくす笑って、ぬいぐるみを抱きしめて、キスをして、食いちぎった。にたにたしながら包丁でぬいぐるみの腹を何度も刺した。包丁を捨てると、泣きながら腹を縫った。
 壁を走り抜けて、天井をハグする。足が千切れるほど大きく足を開いて、部屋を飛び回った。部屋の至るところで大笑いをする。大きな声で歌も歌う。
 ピンポンとチャイムが鳴った。素敵な恋人がやってきた。お互いがお互いを理解している最高のカップルだ。手を繋いでいるだけで鼓動が分かる。ベッドに入って、服を脱ぐ。重なり合うと、恋人は私の中に溶けて消えた。
 私はそこで、自分が誰だか分からなくなった。鏡を見ると、綺麗な顔が映った。目が丸くて、鼻がすっと通っていて、口は横一直線に切れている。それなりに整って見える。
 後ろにいたシロツメクサの私が、一枚の仮面を差し出した。
「あなたの物だよ。泣かないで」
 私はそれを受け取った。今の私と同じ顔をしている仮面だった。
 仮面を抱きしめる。世界が崩れては再び構築される。それが繰り返される。人の悲鳴と絶叫が聞こえる。人の笑い声と幸福の唄が聞こえる。焼けた臭いと花の香り。闇と光。交互に、交互に、全てが聞こえて、途端に消え去る。
「ありがとう、ずっとこうしたかったんだ」
 私はここでしか生きて行けない。そう痛感して、息ができなくて、ベッドで眠った。シロツメクサの私が笑った。
 夢と現実が混ざる。「お疲れ様です」「お疲れ様です」。資料はどこにあったっけ。にこにこ笑って、後輩が「先輩は優しいですね、憧れます」とか言って。私は壁だって壊したのに。床のシャワーを浴びたのに。
 夢でシロツメクサが笑うのか、現実でシロツメクサが笑うのか。そもそもシロツメクサはなんなのか。
 現実が夢に溶ける。先輩が笑う。「君は真面目だから、期待してるよ」とか言って。私が吠える。獣の、腹から絞り出した、本能の号哭。
 「お疲れ様です」が宙を舞う。私はその一つ一つに殺虫剤をふり掛ける。
 本当は自分の顔を愛したかったけれど、私は綺麗な仮面を見つけてしまったから、汚い顔はもういらない。着飾れなかった私の為の、着飾った私の仮面。あぁ、気分が良い。
 今度は何をしようか。私の夢はまだあるのだ。
 シロツメクサが笑う。私は正しい。私はこれがしたかった。

谷山浩子さんの『草の仮面』より