気狂い女と砂浜の手形

少年と少女だった気狂い女の話です。


 気付いたらいつもここに居た。小さな崖が見えるきれいな砂浜。
 どうやってここに来たのか、何でここに居るのかなんて分からない。
 いつもここにいて、ふらふらと砂浜をパトロールしていた。
 パトロールをし始めてひとつ気付いた事がある。どうやらオレは、タイムトラベルができるらしい。 ふと昔の砂浜を思い返そうとすると、ひゅんっと飛んで想起した過去そのものに行けるのだ。
 ただし、それはタイムトラベルというより録画した過去の思い出を再生しているだけのようで、そこでは物事には干渉できないし、 1000年前だとか、5000年後だとか一般的に興味のある方へは飛んでくれない。(オレにその気がないだけなのかもしれないが…)
 オレが生きてきた11年間の思い出なんてたかが知れているが、なかなか面白いものだった。 中でもこの砂浜には特に思い入れがあるようで、過去に飛んだ中5回に3回ほどはここの思い出だった。
 そんな砂浜だからこそ、オレはこんな冬の寒い日の朝にもパトロールをしているのだと思う。たぶん。
 しかし、ひたすら何もない砂浜を彷徨うのは少々骨が折れる仕事だ。そろそろ御役御免になろうかと考えていた矢先の事、オレの目先に幽霊が見えた。 いや、幽霊ではない。怪しい女だ。砂浜に両膝をついて、汚れるのも気にせず必死に何かを探しているようである。
 怪しいのはそんな所ではない。日中といえど、もう1月も中頃。それなのに女は靴も履かず裸足を波につけ、 白い半袖のワンピースを着、痛んだ長い黒髪をかさかさと潮風になびかせ、やせ細った白い身体は幽霊そのものである。一目見ただけで『危ない女』だと分かった。
 もちろん、そんな女には関わらないのが一番であるが、勝手にもこの砂浜のパトロールをしている身である。 しぶしぶ女に声を掛けに行った。もう少し早めに退職を決断すべきだったと思う。
「あー、あのーあんた。何してんの?」
 女はそっと顔を上げた。痩せこけた頬と目の下のくっきりとした隈は予想通り。20代中頃だろうか。などと考えていると、女が目を見開いて唇を震えさせていた。
「ん?」と首を傾げると、女はかすれた声で「シロ・・・」と言った。
「そんな犬みたいな名前嫌だよ。オレはツグモっていうの。この辺を巡回してるガキだけど・・・。あんた、この辺の人なの?何してんの?」
 誰かと見間違えたのか?子供がいるにしては若いし、知り合いとも思えない。まぁ、どうせは気狂いの世迷いごとなんだろうけど。
 女はしばらく黙ってオレの顔をじろじろと見ていたが、やがて諦めたように溜め息をついた。
「そう・・・。私は、クロ」
 ぼそっと呟いた名前を、オレは似合わないと思った。
 こんなに髪が傷んでいるのに『クロ』なんて、と。
 何でそう思ったのかは自分でもよく分からなかった。
「ふーん、クロ・・・。それにしては黒髪がだいぶ傷んでるね」
 クロは不意を突かれたように「え」と言って自分の髪を撫で、オレの顔を見た。
「そうね」
 何故か微笑むクロは、少しだけ名前に近づいた気がした。
「で、何をしていたの」
「手形を探しているの」
「手形?借金?」
「いいえ、違うわ。そうね、ちょうどあなたぐらいの齢に私が友人と一緒にこの砂浜に手形をつけたの。 私が左手。あの子が右手。10年後に手形をつけた場所で会おうって約束して、それっきり。本当は3年前がその10年後なんだけどね、私、13年間病院にいて来れなかったのよ」
 思い出に浸って柔らかく微笑むクロを見て、オレは「バカじゃないの!」と吐き捨てそうになった。
 13年前につけた単純な手形なんて残っているはずがない!この砂浜は冬の今は人なんて来ないが、夏には遠方から遥々やってくる客も一緒になって砂浜は大混雑になるのだ。 そんな所につけた手形なんて運が良くて1日残るかどうかだというのに!さらに3年前に約束した場所に、今待ち人が来るはずないだろう! 大人になってそんな事にも気付かずにまだ探しているっていうのか?とんだロマンチストというか、バカというか・・・。やっぱりこの女は気狂いだ!
「・・・・・・・・・その友達が、シロか・・・」
 よく耐えたよ、よく踏みとどまった。あぁ、子供にしては上出来さ。 「えぇ。あなたにそっくり。あなた本当にシロじゃないの?」
 クロは狂っているくせに気持ち悪いぐらいきれいな瞳でオレを見た。
「期待してもオレはシロじゃない。それじゃ、危険な事してるわけでもなさそうだから続けていいよ。オレはその辺見回ってくるからさ」
「えぇ、私も早く見つけなきゃいけないから。あ、もしかしてあなた、手形踏んだりしてない?」
「踏めるわけがないだろ」


 オレはテトラポッドに座って1日中クロを観察していた。 冬の砂浜に来る人は少なく、クロのような気狂いはちょうどいい暇つぶしになる。タイムトラベル以外の遊び道具が増えたようで、存外飽きない。
 朝早くからクロは必死になって砂浜を這いずりまわっている。
 遠くから眺めてみたりすればいいのにと思うが、ずっと四つん這いになって砂を掻き分けている。 それも海に近い所でやっているものだから、少し高い波が来るたびに流されやしないかと、こっちがひやひやさせられた。
 クロは休まなかった。オレもクロから目を離さなかった。
 そのまま日が暮れると、クロは流石に海から離れオレの座っているテトラポッドの下で休んだ。
 よく見えないけど、きっとクロの手足は寒さで赤を通り越して黒くなっているだろう。痛々しく見えて、オレは明るく声をかけた。
「やぁ、クロ。手形はあった?」
「ないわ。どこにもない・・・。明日は崖に向かってもう少し進んだ所で探してみる」
 かすれた声。テトラポッドの影にクロが吸い込まれそうで怖かった。
「明日も探すの?懲りないね、別にいいけど。・・・もう少し暖かい格好で来たら?見てるこっちが寒いよ」
 クロは応えない。
「あとお昼御飯も持ってきなよ。体力がないと集中して探せないよ」
 クロは応えない。
「休憩も取った方が良い」
 クロは応えない。
「あとトリートメントもした方が良い」
 クロは「えぇ」と答えてテトラポッドの影から出た。


 次の日も、その次の日もクロは崖に向かって手形を探していた。 オレも大概飽きもせず、毎日クロが来るのを待ってはクロが帰るまで見ていた。
 ずっとクロが何であんなに必死なのかとか考えて、結局、半袖のワンピースを普通に着ている姿を見て「ただのバカか」と思うだけだった。
 日に日にクロの髪は少しずつ艶やかになっているようで、手入れを始めたであろうことが分かって少し嬉しかった。 しかしそれと同時に、クロが少しずつ崖に近づいていくのが何故か辛かった。


 1週間も過ぎた頃、いつも通り早くに砂浜に着いたオレは、いつも座っているテトラポッドに座ってクロが来るのを待っていた。しばらくするといつも通り、クロが来た。
 クロの髪にはすっかり艶が戻っていた。クロはオレに気付くと「おはよう」と言って、すぐに手形を探し始めた。
 数十分ほどその様子を見ていて、オレはバカらしくなってきた。
 何で無いと分かっている物を探せるのか、仮に見つけたとしてクロは何がやりたいのか、全く理解ができない。 このままじゃ今日もオレは心の中でクロをなじるだけだと思うと、またバカらしく思った。
 オレは指定席のテトラポッドから降りて足下を見ずにクロに近寄った。
「ねぇ、クロ。何でそんなに必死なの?」
 クロは動きを止めてオレを見上げた。眩しそうに目を細めているのが、どこか悲げに見えた。
「私の思い出は、これしかないのよ」
 クロが砂を掴んだ。その指の跡すら、波がさらって消していった。
「ここで約束をした後ね、何故か分からないけど私は入院させられたの。 シロに会わなきゃいけないのって言っても、誰も聞いてくれなかった。3年前は病院を抜けようとしたけど、すぐに連れ戻されたわ。 私の13年間は病院で先生とお喋りするだけで、思い出にはならなかった」
「シロとは何時から一緒にいるの?13年も君の足枷になるような大した奴なの?」
 クロはきょとんとした。その反応にオレもきょとんとした。
「シロとはこの砂浜に来た時に一度会ったきりよ?私の実家はここからだいぶ離れているもの」
 はぁー・・・。と溜め息が出た。
「そうだ、君から普通の答えが返ってくるはずがなかった」
 くるっと向きを変えてもう一度指定席に戻ろうとすると、「でも、」とクロが言った。
「わたし、シロの事が本当に好きだった。昔から引っ込み思案で意思表示が苦手な私の壁を、簡単に破ってくれたの」
 うっとりと語るクロは、オレの事を見ていないようだった。オレはもう一度大きな溜め息をついた。
「クロ、オレも手伝ってやるよ」
 クロはオレの顔を見て目を丸くしていた。髪の隙間から大きく見開かれた目がこちらを見ていて、幽霊に睨まれているような気がして気味が悪かった。 髪も切るべきだと後で教えてやろう。
「大丈夫。クロはここで待っているだけでいい」
 オレは秘密兵器を持っている。タイムトラベルだ。これで早くこんなバカらしい事は終わらせてやろう。クロはこんな思い出は忘れて、さっさと新しい人生を歩んだ方がいい。
 もちろん、今までの結果からすればクロの幼い頃には絶対に行けない。でも、3年前の約束の日には行けるはずだ。 手形がない事実を持って帰れば、きっとクロも諦めるはずだ。このままではクロは崖に辿り着くまで探し続けるのだろう。
 何故か、クロがだんだんと崖に近づいていくのが不安でならないのだ。崖に行くまでに、決着をさせなければいけない。
「オレが約束の日に行って見てくる。そこに手形があれば、教えてやる。無ければもう諦めるんだ」
 案の定クロはぽかんと口を開けて呆けていた。この分じゃきっとこの気狂いの女は「手形は無かった」と言っても信じないだろう。 それでも、オレの自己満足として行かなくてはならない気がしたのだ。
「じゃあ行ってくる。なるべく早くには帰るつもりだけど、帰りは明日になるかもしれない。身体には気をつけて」
 クロがはっとして「シロ!」と呼んだ瞬間に、オレはクロの前から消えた。


 きっと夏。こういうのは相場で「10年後の今日の日に会おう」って約束するものだから。 違うかもしれないけど。手当たりしだい行くしかないと思い、3年前の砂浜を想った。指定席のテトラポッドに座り、高速逆再生で砂浜の歴史を遡る。1年,2年,3年…あれ?
 3年前の砂浜に辿り着くはずが、そのままどんどんと巻き戻り13年前の8月16日の砂浜に辿り着いた。
 なんだ、本気を出せばオレの思い出以外も見れるんじゃないか。そう思って少し得意気でいると、思わず鳥肌が立った。
 今までの謎が一気に解けて、吐き気すらした。
 まさしく昨日クロが探していた辺りに、長い黒髪の少女が座り込んでいた。その少し後方に見覚えのある少年。
 どうりで簡単に見つかるはずだった。オレは手形の存在を探す時に、一点しか見ていなかったのだから。
 黒髪の少女は『クロ』。今少女に声をかけた少年は『シロ』。本当にオレにそっくりだ。そりゃあそうだろう。そうに決まってる。
 シロが一人で砂遊びをしているクロに近づいて言った。
「お前、名前なんていうの?」
 幼いクロは白い半袖のワンピースを着ていて、夏の強い日差しに輝いていた。長い黒髪もさらさらと風に流れて美しかったし、何より可愛かった。
「わ、わたし・・・?クロ・・・」
「黒髪だから?ふーん、確かにきれいだね」
 クロは少し顔を赤らめて照れた。それはお世辞抜きでかわいいと思う。
「じゃあオレはシロがいい」
 シロは『クロ』という名をニックネームか何かと思ったらしい。良い案だとでも言わんばかりに胸を張って誇らしげにするシロにクロは焦った。
「お前が悪者でオレが正義のヒーローみたいでかっこいいじゃん」
 シロはいじわるっぽく笑った。クロはいよいよ慌てた。
「違うのよ。わたし、本当にクロっていうの」
 わたわたと腕を振って取り乱すクロがあんまりにも可愛いものだから、シロはすっかりクロの虜になった様だった。 いや、一目見たときから既に虜であったようにも思える。
 二人は今日、偶然砂浜で会っただけ。クロは遠い都会から来た観光客。シロは近所に住む田舎のマセガキ。 相容れることのなさそうな二人であったが、齢が近い事もありすぐに打ち解けた。
 二人はこれといって目的もなく、砂を固めて山を作ったり、砂浜にうち上がったクラゲを突いたりして遊んだ。 シロにとってそれはあまりにも楽しい時間で、ものすごい勢いで時間が流れていくように感じていた。オレもその間、時間を忘れてぼうっと二人を眺めていた。
 シロは時間があまりに早く過ぎているのを感じ焦ったのか、突然遊びを止めて真剣な顔をした。
「クロ。お前、好きな人とか、いるのか」
 大人ぶったマセガキで、どうにもかっこつけたがりだったシロ。見ていて恥ずかしくなる。
 クロは「んー・・・」と少し焦らしてから、満面の笑みで
「私、シロが好きよ」と言った。
 ぽっ、と一気に赤くなるシロ。子供らしいと言えば子供らしいその反応に半ば呆れた。
 シロはそれっきり止まったかと思うと、いきなりばねの様にとび上がった。
「クロ・・・!・・・・・・ここに手形をつけよう」
 よく耐えたよ、よく踏みとどまった。あの時のシロはもっと大それた事を言い出しかねなかった。あぁ、子供にしては上出来さ。
 クロは何の事かさっぱり分からないというような顔をしていたけど、「うん」と頷いてくれた。
 シロはドキドキしている胸を鎮める為か、2、3回深呼吸をしていた。全くくだらない。
 海水に手を浸して、シロは右手、クロは左手を砂浜に押した。二人で一対の手形を見て、シロは満足そうな顔でクロに向き合った。
「クロ。あと10年したらこの手形を目印にしてここに来てくれないか。その時、もう一度クロに会いたい」
 シロはぎゅっとクロの手を握った。 手形なんかすぐに消える事を考えていないシロはガキだなとか、こいつ子供のくせに何言ってんだとか、色々つっこんでみて気が滅入った。
 クロは一瞬驚いてから、ふわっと口元を緩ませて笑った。
「うん、約束ね!」
 シロも満面の笑みを浮かべていた。
 なんだかむず痒くて直視できなかった。
 クロがあんまりにも可愛いから、シロは少しかっこつけようと思った。クロが可愛いから、自分はかっこよくあるべきだと思ったのだ。
(あぁ、そうか)
 ここからも、あの小さな崖が見えた。
 シロが崖を指した。あの時、確か自分はこう言ったはずだ。
『あの崖にきれいな花が咲いているんだ。クロに採ってきてやるよ』
 オレとシロは同時にそう言った。
 クロは「本当?」と首を傾げた。
「あぁ。大丈夫、すぐに戻ってくるから」
「あ、待って。私も行く!」
 二人は一緒に崖まで走っていった。
 オレも二人に続いて崖に向かった。足元は見ない。見る必要もない。
 一度道路に上がって遠回りをすれば安全に崖の上に行ける。崖の上は小さな林になっていて、そこには確かにきれいな花が咲いていた。白い、きれいな花。 クロの艶やかな黒髪によく映えそうだった。奥に一際大きく、最も美しく輝く花が見えた。光を浴びているからだろう。
 シロはあれが良いと思った。
 オレはあれがダメだと思った。
 シロは走ってその花を採りに行った。
「クロ、ほら!」
 摘み取った花を光にかざした少年。背後の海。木漏れ日とその先の青い空。実に絵になるその風景を、この絵を、クロはきっと一生忘れないだろう。
(あーあー、そんなにはしゃいでバカじゃないの)
 シロは風に煽られた。少しよろけて踏んだ土はボロッと崩れ落ちた。
(ほら、言わんこっちゃない)
 シロは風にさらわれるようにして落ちた。神様があの絵を我が物にしたかったのかもしれない。
 クロが驚いて手を伸ばすが、シロは花を握り締めたままで、手が届く事は無い。
(最後までかっこつけるんだよなぁ…オレ)
 シロはクロに向かって持っていた花を投げる。どうか、愛する君に届いてくれ、と願いを込めて。
 クロが「シロ!」と叫んだのが聞こえた。
 それが合図だったかの様に、シロは岩礁に頭を打ち付けた。
「バカなやつ」
 バカなオレの、物語だ。

 見ているとオレまで頭が痛くなってきた。いや、記憶が甦ったというのか?
 あの後はもう砂浜は大混乱。
 シロは岩礁の凸部に頭を割られ、即死。花はクロに届くはずもなく、空しくシロの上で赤く染まっていた。
 クロなんか安否を確認しようとしていち早く死体を見てしまい、発狂してしまった。
 吐いて、泣いて、暴れて、叫んで、気を失った。
 異変に気付いた大人達が救急車を呼んでいたが、海を泳いでシロの死体を確認しに行った人はすぐに救急車を呼ぶ必要がないと分かってしまった。
 もうここでは何も得るものがないと判断したオレは、その間に手形を確認しに行った。
 事故で子供が死んだとかで人々が野次馬に群れをなして行ったり、子供連れが急いで帰ろうとしたせいで、手形が足跡に変わっていた。 とどめに波が足跡すら消して、何も無くなった。
 手形の有無を確認したオレは、手形を探すクロのもとへ帰った。


 帰ると既に夕暮れで、沈みかけいる夕陽が目に痛かった。
 クロは一人になってからも探していたのだろう。少し遠くで手形を探しているのが見えた。
 オレはしゃがんで、海水に両手を浸した。ちょうど、この辺りにオレとクロで手形をつけたんだ。
(少しの間、残っていてくれ)
 そう念じて両手を砂浜に押し付けた。出来上がった一対の手形を見て、オレは目を細めた。
 そして立ち上がり、走った。足下も見ずにクロを目指して走った。途中でクロが気づいて「シロ」と呼んだ。
「クロ、あそこにある手形は違うのかい?」
 オレはさっき手形をつけた辺りを指した。もちろん、こんな所からじゃ本当に手形があるのかなんて見えない。 しかし、クロは正確な位置をしっかりと見つめ、息を呑んで走り出した。
 その姿を目で追う。砂浜にはクロの足跡だけがはっきりと残っている。この分なら、手形も残っているはずだ。
 オレもクロのあとを遅れてついていった。
 「あった・・・」
 あと5歩も行けば手形に触れる距離でクロが驚きのあまり立ちすくんでいた。そして、よろっと、1歩手形に近づく。
 その瞬間、波が容易く手形をさらっていった。
 クロは動きを止めたかと思うとその場にへたり込んだ。
 波の音だけが、異様にうるさかった。
 
「これで、目が覚めたろう?」
 クロは応えない。
「なんでオレなんかに構うんだよ。オレはクロが好きだよ。だからもうオレの事を忘れて、幸せになってほしいんだよ」
 子供の遊びだった。子供の戯言だった。でも、もうそれじゃ済まなくなっていた。
「わたし、」
 細い、震えた声。泣いているのかもしれない。分からない。
「わたしの、シロにあったあの日は、わたしにとっては1日じゃない。13年なの」
「クロ、」
「シロにとっては1日でも、わたしには一生に等しいのよ」
「クロ、辛いならもういい」
「3年も遅れてしまったけど、シロが来てくれるような気がしてた。待っていてくれてるような気がしてた」
「もう、いいから・・・」
「でも、」
 クロがうなだれた。涙でぐしゃぐしゃの顔が少し見えた。
「シロはいないんだ」
 手形は消えた。
 オレは消えた。
 思い出は消えない。
 クロがあんまりにも泣くから、オレはどうも死にたくなった。もう死んでるけど。
 クロを抱きしめて、額にキスをした。子供の時にできなかった事。してあげたかった事。 でも、子供の時に言えなかった言葉は言えない。言ったところで、悲しいだけから。
「じゃあ、オレはそろそろ行くよ」
 クロが、もうオレがいないと分かってくれたなら十分だった。
 たぶん、十分だった。
「さようなら、クロ」
「さようなら、シロ」
 消える時、クロが寒そうに身体を抱えるのが見えた。

END.

やっぱりいつも最後がなぁなぁになるのが私の悪い癖だと思う^q^
友人が待っていてくれたので急いで上げました。