吐き出す温度

失恋



 ひっきりなしに、あちこちからメッセージが送られてくる。全部キープしておいた女共からで、必死で俺を遊びに誘ってくる。たぶん、クリスマスが近いからだろう。男とクリスマスを過ごしたい、とかそんな理由で恋人が欲しいだけに決まってる。普段ならそういう頭の悪い女に付き合ってやるのもやぶさかではないのだけれど、今年はどうもそんな気にはなれない。
「お前、もう女と付き合えないよ」
 秋祭りで直人に言われたその言葉が、いやに頭にこびりついている。いつもの温度の無い瞳と声で、責めるような強さだけが感じられた。あれは、どういう意味だったのだろう。あの時は、俺が女の相手をしたから嫉妬したのかと思った。だけど、それにしては冷たい声だった。もしかして、俺のこと心配してるのか? そう考えたのは、祭りが終わった一週間も後の事だった。確かに、俺は女に情欲を向けられるだけで吐くし、そのせいで恋人との関係は続かない。祭りでは女の嬌声だけでダメだったほどだ。正直、どんどん悪化している。オナニーくらいなら女がおかずでもいけたが、想像だけで吐きそうになる。別れた数だけ、女性という生物に対して嫌悪感を抱いているのかもしれない。そこに、あの言葉だ。直人に縛られているみたいに、もう俺は女と付き合おうと考えられなくなっていた。全部、直人のせいだ。
「じゃあ、俺バイト行ってくるな。昼飯はチャーハン作っておいたから、レンジで温めて食えよ」
「……おう」
 バタンと閉じて、鍵がかけられるまでドアを見守った。相変わらず「いってらっしゃい」とは言えない。彼女がいない時の俺は、何もやることが無い。直人がいなければ、この部屋は寂しいだけだ。
 そういえば、俺は直人がいなかったらどうなるんだろう。飯は食えないし、ごみは捨てられないし、靴紐も結べないし、吐き気から逃げる術もない。それに服だって、もう、一人じゃ選べない。俺の中身が、全部直人に書き換えられていくみたいだ。ルームシェアを始める前は、そんなことはなかった。俺はもっと色々できたし、直人にしてやれることもあった。それが今じゃこれだ。自分の事だって直人に世話されなくちゃ自信が持てない。直人に与えられる物しか受け入れられないし、誇張でなく、直人がいなけりゃ生きていけそうにない。
 馬鹿みたいだが、こういう暇な時間は、直人のことばかり考える。と言っても、暇な時間ができたのはここ最近だ。今までは暇つぶしにできる女がいくらでもいた。そうしないのは、もちろん秋祭りの時のことが忘れられないからだ。あれから俺は、一人で悶々とし続けていた。直人のことは、相変わらずよく分からない。でも、あの時はちゃんと俺に触れてくれたし、耳を覆う手は温かかった。直人の温度がはっきりと伝わってきて、すごく、安心した。全部、祭りの日から変わった。変化に気付いただけかもしれないけれど、確かに変わった。ずいぶん直人に守られていたのだと分かったし、すっかり直人の色に染められていることにも、ようやく気付いた。冷静に考えれば気持ち悪いが、不思議と嫌ではない。むしろ、大事に世話をされるのが嬉しい。男に対してこんなこと言うのもあれだけど、母親に愛されるのってこんな感じかな、とか。嫌われているなんてありえない、と自惚れてしまいそうなほど、俺は直人に大切にされている。と思う。思いたい。あぁ、だめだ、やっぱり分かんねえ。もやもやする。
 ちらりと玄関のドアを見て、こそ泥みたいにそっと自分のベッドから降りる。床を這うように移動して、反対側の壁に接する直人のベッドに潜り込んだ。こんなこと考えてたら、我慢できないのは当然だろう。だって、暇だし、一人だし、女じゃ起たないし、もう、あいつのこと以外考えられない。
 枕に鼻をすり寄せれば、直人の匂いがする。布団に包まれば、抱きしめられてるみたいに温かい。鼓動が早くなる。祭りの日以来直人は触ってくれないから、こうでもしないと寂しくなる。息を吸い込んで、吐く。だんだん、息が熱くなる。身体も火照ってきて、「直人」と切ない声が漏れた。溜まってはいるけれどAVなんか見れる身体じゃないし、最近はご無沙汰だった。やばいと思いながらも、久しぶりの劣情に身を委ねた。
 左手で枕を抱いて、右手は下着の中に挿し入れる。もう緩く起ちあがっていた。自嘲気味に笑う。あ、俺、変態だ。男の匂いで興奮してる。男のベッドでオナニーしてる。自分が変態行為に勤しんでいると思うと、ますます興奮してくる。自分への嫌悪すら、気持ちがいい。きゅっと目を閉じて、自身を握り込んだ。「あっ」と上擦った声が出て、羞恥にまた身体が熱くなる。久しぶりだからか、身体が快感に慣れていないらしい。直人の顔を意識して思い浮かべると、手の中でますます元気になる。この変態、感度上げてやがる。快楽に焦る心を押し殺しながら、ゆっくり上下に擦った。
「んっ、ふっ、ふぁ……」
 もどかしさに喘ぎそうになって、着ていたTシャツを捲り上げて裾を噛む。徐々に手を早くしていくと、先走りが下着を濡らす。ふ、ふ、と息が浅くなる。枕を顔に押し付けて、恥を捨てて、必死で直人を想像した。
 直人が俺に触れている。「圭」って、宝物みたいに呼ぶ。息がかかるくらい近くで、俺に囁く。黒い髪が肌をくすぐる。温度の無い瞳が、俺を見ている。表情にも熱はないのに、触れた手だけが、熱くて、優しくて、堪らない。もちろんこんなの全部妄想だし、実際俺を慰めているのは俺の手だけれど、すげえ、気持ちいい。本当に触られたら、どうなっちまうんだろう。腰がとろけて、堕ちそうだ。
 ぐるぐると駆け巡る色欲に、余裕が無くなる。頭の中にある直人の顔が、直人の声が、直人の温度が、俺を犯しているみたいだ。もう、直人の事しか考えられない。自慰まで直人に世話してもらっているような気分だ。バカみたいに直人、直人、と頭の中で誰かが媚びた声で呼ぶ。その声を少しでも放出したくて、口を開く。涎に濡れたシャツを解放すると、熱に浮かされるまま夢中で喘いだ。
「な、おと、なおと、あっ、んっ、なおとっ……」
 切ない声が耳を凌辱し、背筋を痺れさせる。女には起たないくせに、幼馴染の男を想像して、名前まで呼んでいる。男の匂いに包まれて、抱かれたいとすら感じてる。俺、完璧にホモじゃん。気持ちわりぃ。自分への侮蔑が背徳感を呼び、それがまた快感を呼ぶ。爪を立てるように竿を刺激して、自分を追い詰める。やばい、イキそう。解放の期待に、息をのむ。目の前が霞んできたのに気付いて、先端を握り込んだ。
「ひ、んっ」
 ビュクッ、と手のひらに精が吐き出された。イったばかりの甘い怠さが全身を襲う。ゆっくり呼吸をしながら、余韻に浸る。当たり前だけど、男をおかずに抜いたのは初めてだ。でも、今までで一番気持ち良かったかもしれない。まずい、癖になりそう。いまだに直人の顔が瞼の裏に映っている。気付けば、どうしようもなく焦がれている。もっと触ってもらいたいし、抱きしめてほしい。それに、唇も暴いてほしい。そこまで考えてから、自分がとんでもないことを考えていたのではないか、と赤面した。それが誘い水になったように、どんどん冷静になる。やっちまった、という慙愧の念が胸に広がった。重い身体に鞭打って、ベッドから抜け出す。全部手の中に出したし、たぶん汚れてない。たぶんな。ティッシュを三枚取って、手のひらと下着の中に零した精液を拭った。
 男で、直人で抜いた。しかも、ベッドをおかずに使って。後悔しかない。あぁ、今さら自己嫌悪させるなよ。ほんと、俺どうかしてる。もう直人の顔見れねぇ。
 「なおと」と呼ぶ甘ったるい声が、なぜか耳に張り付いている。その声でベッドの中を思い出し、顔が火照る。反省も後悔もしてるけど、なんでか満たされてる。最低だ、最低だ。もう分かり切ってたけれど、たぶん俺。
「直人のこと、好きだ」

 ベッドに横になってテレビを見ていたら、直人は帰ってきた。コートを着ていても鼻が赤らんでいて、外は寒そうだ。窓を見れば、いつの間にか日は暮れていた。
「ただいま、良い子にしてたかー」
 そう言って直人は俺の頭を撫でた。本当になんでもないように、自然に撫でた。驚いて思わず固まる。髪だけど、触られた。直人から。いつもはそんなこと絶対にしないのに。何をされたのか理解するまでに時間がかかって、振り返るのが遅くなった。
「いきなりなんだよ」
 撫でられただけで高鳴る胸が喧しい。平静を保ちながら笑いを堪えきれずに、にやにやと直人を見る。いつもならすぐに夕食の準備を始める直人が、コートを脱いでから俺を見下ろしていた。
 ふと、その瞳に冷たい色を見て、ぞっとした。今までこいつから特別な温度を感じなかったし、あるとすれば温かい色だと思っていた。あれだけ目をかけてくれているのだから、俺が気付かないだけで、温かい温度を持っているのだとばかり……。なんで、こんな時に限ってそんな目をするんだ。
「圭さぁ」
 声も、冷えきっている。直人は、寝転ぶ俺と目線が合う高さに屈む。妙なプレッシャーを感じる。思わず身を引くと、直人の手が俺の腕を掴んだ。その力があまりに強く、身を縮める。暴力を振るわれているような気分だった。俺と体格は変わらないはずなのに、直人が大きく見える。いつも優しい直人が、怖い。
「俺のこと好き?」
「……は」
 予想だにしていない言葉に、思考が追いつかない。呆けていると、強く身体を揺さぶられた。
「俺のこと好きなのかって聞いてんの」
「いたっ、痛い、直人、やめろ」
 腕を掴む力があまりにも強くて呻いた。揺さぶりは止まったが、まだ手は離れない。何が起きているのか分からない。直人は、怒っているのか……? 直人が怒るなんてめったにない。何をそんなに腹を立てているのか、見当もつかない。直人が静かに俺を見据える。影のせいで、表情が暗く見える。
「俺のこと好きなんだろ、なぁ。俺のベッドで何してたんだ? 俺の匂いで興奮したのか?」
「え……」
 頭から血が下りていく。視界が遠のいて、呼吸が止まりそうになった。
 なんで、知ってんだ。羞恥よりも絶望の方が勝って、足先から麻痺していく。嘘だと言いたかった。だって、あの時直人が部屋を出ていくのは見ていたし、ドアに鍵が掛かるのだって見ていた。あれから誰かが入ってきたのなら、鍵を開ける音で分かるはずだ。なのに、どうして。
「なん、で」
 唇が震えた。目頭に熱が灯る。軽蔑された。もう一緒に居られない。俺は、直人無しじゃ生きられないのに。
「圭」
 耳元で直人が囁く。浅ましくも、俺の身体はその息で快感を覚えた。
「俺にキスしてもらいたい?」
 直人の冷たい指が、俺の唇をなぞる。久しぶりに触れる直人の手に、こんな時ですら嬉しくなる。
「俺に抱かれたい?」
 指はそのまま顎を撫で、首を辿り、下へ、下へと進む。服の上からへそを撫でられ、びくりと身体が悦んだ。
「直人……」
 呼吸が乱れる。正直起ちそうだし、たぶん情けない顔してる。直人の手が離れるのが名残惜しい。しかし、すぐに冷たい目と視線が合って、恐怖が蘇った。いやらしく、直人の口角が上がる。
「女遊びするくせに女とはやれないし、こじらせて男好きになっちゃうとかさ、自分でどう思う?」
 耳を塞ぎたくなったが、腕が抑えられているから、代わりに目を閉じた。顔も見られたくないから、自分の頬を肩に寄せる。直人の声は冷えている。ただただ俺を蔑んでいる。「ごめん、ごめん」と口が勝手に動く。嫌われたくない、その一心でひたすら謝る。ひくっと喉が鳴って、自分がみっともなく泣いているのに気付いた。恥ずかしいし、怖い。嫌われて、この生活が終わるのが恐ろしい。今直人がいない世界に放り出されたら、それこそ俺は何もできない。寂しくて、辛くて、きっと死を選ぶ。身体の震えが止まらない。羞恥と、恐怖と、申し訳なさでわけが分からない。
「なぁ、どうやってオナニーした? ケツ使ったのか? 男をおかずにするのってどんな気分だった? お前の妄想で、俺は何をしてくれた?」
「ごめっ、ごめんっ、ごめん、ごめん……」
 あからさまなため息が聞こえた。俺の肩が跳ねる。怖い、怖い。捨てられる、とか、女々しい言葉が脳裏をよぎる。
「直人、俺のこと、嫌いに、ならないで。もう、しねぇから、好きとか言わねぇから。俺、直人がいないと、生きていけない。だから、頼む、嫌いにならないで。見捨てないで」
 嗚咽まじりに縋りつく。直人に嫌われたら、俺に居場所はない。家には、帰れないから。
 義母さんが俺に何をしたのか、親父は知っている。知っていて、親父は離婚しない。俺よりも、義母さんを取ったんだ。なけなしの良心が傷んだのか、俺を一人きりで放り出すことはせず、直人に俺を押し付けた。中学の頃から、素行の悪い俺を親父が持て余し始めたのは知っている。そのせいで、親父が俺より義母さんを愛するようになったのも。その後で義母さんが俺に何をしたのか知って、義母さんだけ許したのも。義母さんとの生活のために、俺を見捨てたのも。全部知っている。親父にとって、俺は邪魔な存在だから、戻れない。戻りたくもない。でも、どこにも帰る場所がないのは寂しいし、怖い。
 直人の手が腕を解放して、優しく腕をさすった。
「圭、俺の可愛い圭。なんであんなことしたんだ。お前は俺の天使だったのに。そりゃあお前は純粋だから、一度欲が湧いたら抑えられないかもしれない。けど、どうして、一番悪い欲に負けたんだ」
 直人は俯いて、弱々しい声で呟いた。先ほどの凍えそうなほど恐ろしい声とは一転して、今にも泣きそうだ。だが、直人の言葉はよく分からない。何を言っているのか、俺には理解ができない。直人の身体はどんどん小さくなって、ベッドの下に座り込んでしまった。
「でも、そうだよな。素直に俺の思うように動いてくれてさ、俺に懐かない方がおかしいよな。それに、お前は自由な天使だから、どんなことでもすぐに行動に起こせるんだ。お前がそういう純粋な天使だからこそ、こんな事になったんだよな」
 意味の分からないことを喋り続ける。不意に言葉が止まる。突然直人が顔を上げて、俺を、見た。思わず俺は後ろを振り返った。後ろには白い壁しかない。ゆっくり、直人の方を向き直す。見ている。温度の無い瞳が、俺を通して何かを見ている。そこには好意も悪意もない。まっさらな、ただの視線。首筋に汗が伝った。
「圭、俺のこと好き?」
 突き刺すような、鋭い脅迫。「直人」と呼べば、目を細くして笑った。答え以外何も言うなと、首に手を掛けられている気がした。恐る恐る頷く。
「よかった。じゃあ、俺の言う事聞けるよな?」
 何も考えず、反射的にもう一度頷く。そうしないと、どうなるか分からなかった。直人が直人じゃないみたいで、俺も俺じゃないみたいだ。直人の中にある世界が部屋を支配していて、俺は何も分からないまま、飲み込まれる。逃げられるわけがない。逃げる場所もないのに。
 直人は満面の笑みで立ち上がる。俺の頭をポンポンと叩いて、嬉しそうに鼻を鳴らした。
「俺はホモじゃないからお前とは付き合えないけど、お前がいい子にしていたらご褒美くらいはくれてやるよ。圭、お前は今まで通り好き勝手やっていればいい。女と遊んで、わがまま言って、俺に寄生していればいいんだ。ずっとずっと、俺がいないと生きていけない、無知で無垢な子供でいればいい。そうしていたら俺はお前を絶対捨てないし、お前の望むことは何でもしてやる。お前が天使でいる限り、圭を受け入れる」
 分かった? と優しく問いかけられる。こくこくと何度も首を縦に振った。直人が何を言っているか分からない。でも、俺を受け入れてくれるのなら、もう何でもいい。俺は直人に逆らえないし、逆らおうと思う気持ちさえ、すっかり直人に溶かされてしまった。
 ようやく分かった。俺たちの関係は、どこかおかしい。愛とか、友情とか、そういう穏やかな温もりがなくて、俺だけが熱っぽい。直人は心がないみたいに独善的で、思いやりなんてなかった。こんなのは間違っている。だが、いつ間違えたのかも分からない。俺が直人を好きになったからか、直人が俺を甘やかしたからか、俺が女を抱けなかったからか、それとも、俺が女に犯されたからか。
「いい子だな、圭。何がしてほしい?」
 涙に濡れた頬が冷たい。
「……手、握ってくれ」
「そんなことでいいのかよ」
 直人が笑って、俺の手を躊躇いがちに握った。握られた手を頬に添えた。温度がない。直人の手は無機質で、空虚だ。何も伝わらない。悲しくて、何も考えたくない。直人が言うような何も知らない子供のフリをして、もっと直人を強請った。
「キスしてほしい」
「わがままというか大胆だな、天使様」
 なんだっていい。離れないでいてくれるなら、どうでもいい。ただ、一つだけ本音を言えば、本当はもっと温かい、冬にぴったりの恋がしたかった。

ホモです