吐き出す温度
暑い季節は嫌いだ。冷たい人を好きになる。そりゃあ暑い時はその冷たさが心地良いのだけれど、涼しくなってくると、こんなに冷たい人だったのかと驚いてしまう。それが悲しい。寒い季節はまだいい。温かい人を好きになる。そういう人と一緒にいると落ち着くし、温かい季節が来ても嫌にならない。ただ、温かい人っていうのは熱が好きらしく、すぐに求めてくる。それが恐ろしい。熱っていうのは、たぶん俺への好意とか関心で、それ自体は好き。だけど、熱すぎる熱は受け止められないから、押し付けられても困る。だから俺という人間は、きっと季節ごとに恋人を変えるしか生きていけないのだと思う。春の口に別れて新しい彼女を作り、夏の終わりに別れて春に別れる。これを毎年繰り返すのだ。
今はすっかり涼しくなって、もう半袖は片付けられた時期だ。シーズンで言えば、冷たい女と別れる頃。今回の女もはずれだった。肌がひんやりしていて、べたべたしたがらないクールな性格で、夏にぴったりの人だった。だからと言って夏が終わったらさよなら、なんてことは考えていなかった。毎年同じ事を繰り返す俺だけれど、別れる気で付き合う事なんてない。この人となら冬を越せるかもしれないと思っていた。
しかし、この女は何を間違えたのか、こうして部屋まで押しかけてきた。あまつさえ、「どうして抱いてくれないの」なんて、暑苦しいことを言ってのけた。眩暈がするほどいつも通りだった。女は俺をベッドに押しやり、軽い力で肩を押した。倒れてやった方がいいんだろうな、と思ってベッドに横たわる。女は馬乗りになって、俺を見下ろした。染まった頬と、正気と思えない真剣な目。唇は濡れていて、たぶん、扇情的。
「で、どうすんの」
女の前では出したことの無い、冷たい声音で言ってやる。何もしなければ、俺たち終わらないのにな。という諦めの表れだ。女は唇をきゅっと絞り、自分の服に手を掛けた。ボタンを性急に外し、下着だけになる。吐き気を堪えるために、唾を飲む。女は口の端をちょっと上げて、唇を重ね、俺の名前を呼んだ。熱に浮いた瞳と目が合う。その瞳が恐ろしくて、俺は動けない。女はついに、自ら下着を取り去った。
瞬間、胃の中身が逆流する。咄嗟に女を振り落とす勢いで身体を横に回転させ、ベッドの上に嘔吐した。女の舌で犯された口内が、胃液で消毒されていく。同居人がせっかく作ってくれた昼食が、どろどろになってベッドに広がった。それを見て女が悲鳴をあげながらベッドから降りる。と、ほぼ同時に玄関のドアが開いた。「ただいまー」という間抜けた声が聞こえて、女は冷静になったのか、真っ赤になりながらも急いで服を着た。俺はそれがあんまりにも滑稽に見えて、嘔吐きながら笑った。
「圭? なにしてるんだ?」
直人が入ってきた。乱れた服の女と、吐瀉物とベッドに並ぶ俺。直人がはっと息を飲むと、女はその横をすり抜け、走って出ていった。直人は俺の元に駆け寄ると、目を細めて吐瀉物を見た。
「また吐いたのか」
「うるせぇ。文句はあの女に言えよ」
直人は大きく溜息をつくと、嘔吐く俺を横目に「またシーツ替えなきゃ……」と項垂れた。
「俺風呂入ってくるから、片づけといて」
シーツで口元を拭って直人に押し付ける。頭を掻きながらスマートフォンを手に取ると、既にさっきの女から連絡が入っていた。「ごめんなさい」とか「冷静になったから、連絡がほしい」とか、勝手なことばかり綴られている。これは無視することにして、端末を机の上に置き直した。
直人は幼馴染で、大学から一緒にルームシェアを始めて今に至る。男同士のルームシェアなんてなんの冗談かと思ったが、家を出たいと言う俺に親父が出した条件が、直人との同居だった。確かにあいつとは長い付き合いで、よくつるんでいた。進学先は学部学科まで同じで、俺と違って品行方正。ダメ息子の監視役にはうってつけというわけだ。俺はそれで手を打ったのだが、まさか本当に直人がルームシェアに応じるとは思わなかった。俺の季節ごとに恋人を変える癖はその時すでに直人は知っていたし、部屋に女を連れ込む気でいると明言までしたが、奴は動じなかった。おかげで俺は好き勝手やらせてもらっているわけだが。
直人の考えは、正直よく分からない。直人の俺を見る目は、温度がなくて暗い。そりゃあこんなだらしない奴なんか、汚物でも見るようにしか見れないだろう。それに、俺と肌が触れると、怪我でもしたみたいに触れた箇所を抑える。嫌われている、というより、差別に近い感情を持たれているに違いない。なら、俺なんか早く切ってしまえばいいのだ。曲がった事や下品な事が大嫌いなはずのあいつが、何を耐えているのか分からない。第一、女に迫られて吐いたのは初めてじゃない。この部屋で初めて吐いた時、流石の俺も部屋を出ると申し出た。奴はそれをあっさり断り、勝手に俺の吐瀉物を片づけ始めたのだ。それも一度だけでなく毎回、俺が言わなくても片づける。変だとは思う。が、同居が始まってから、身の回りの事は全て直人に世話をしてもらっているから、あまり気にならなかった。甲斐甲斐しく汚物の世話をするくらいだ。奴は悲劇のヒーローでも気取っているのかもしれない。
ちょうどよく沸いていた風呂を見て、舌打ちをした。いいかげん、この距離感を煩わしく思っていたのだ。風呂から出たら、何と言って鎌をかけてやろうか。
幼馴染の圭は天使だ。羽も天使の輪も無いけれど、これは間違いない。人間の汚れた部分を丸々落としてきたような、真っ白な奴だ。
天使である圭は、セックスができない。見た目が良く、ノリが軽い圭は女子に人気がある。だから常に彼女がいるのだが、彼女たちとしたことは一度もない。女の裸や情欲を見ると激しい吐き気に襲われ、限界になると嘔吐する。圭の本質を見抜けない馬鹿な女達は、自身が拒否されたのだと勘違いし、離れていく。その話を聞いた時、俺は感動した。頭の悪い人間達の実の無いセックスを、こんなにも全身で拒絶する人間が存在するのかと身が震えた。
圭が天使であると確信したのはそれが一番の理由だが、他にも理由はある。圭は天真爛漫だ。汚れた人間から見れば、それはただのわがままや横暴にしか映らないのかもしれない。しかし、俺には分かる。その身勝手は純粋ゆえの素直さで、外聞など歯牙にもかけない天使の特徴だ。それらの要素から、俺はしだいに圭を信仰の対象として見るようになっていった。直に天使に触れるのは禁忌だと己を律し、うっかり触れようものなら、自責の念にかられるほどだ。
天使の純潔が今まで守られてきたのは奇跡に等しい。圭を誑かす雌蛇が現れないとは限らないのだ。圭が大学は県外に行くと聞いて、俺はついて行くのを決めた。そうでもしなければ、人間がいつ天使を堕落させるか気が気でない。圭の親父さんから圭とのルームシェアを頼まれたのは僥倖だった。四六時中圭を監視できるのだ。圭の外見だけにひっかかる女は放っておいていい。排除すべきは、圭の内面に触れようとする女だ。実際今までに、ドラマのような恋愛を求めて圭の内側を引っかく女がいたが、それは俺が排除してきた。圭の携帯から今付き合っている女の特定は簡単にできるし、その女にちょっと脅しのメールを送れば、すぐに離れていく。そうして天使は今日の守られている。
圭が彼女を作る一方で、セックスを生理的に受け付けられないのには理由がある。圭は母親を幼い頃に亡くしている。顔も覚えていないくらい、小さな頃に。病気だったらしい。幼い圭に母親がいないことを憂いた親父さんは、早い時期に再婚をした。この再婚相手が、まずかった。侮蔑を込めて言えば、極度のショタコン。精通も迎えていない圭相手に性的興奮を覚え、性的虐待を繰り返したらしい。圭が抵抗できる歳になるまでそれは続いたようだが、たぶん、親父さんは今もその事実を知らないと思う。再婚相手と今も仲睦まじくしていることから窺える。結果、真っ当な母の愛を受けることなく育った圭は、母性を求めて女を漁り、トラウマによって関係を壊され続けている。しかし、これは俺にとっては不幸中の幸いだ。汚い人間に犯された圭は、天使として生きる道を余儀なくされたのだ。俺の信仰は、ショタコンのババアによって作られたと言える。皮肉だが、悪い気はしない。
部屋に付けた監視カメラの映像は、スマートフォンから見られる。カメラを確認して圭が嘔吐したのを見届けると、俺は玄関のドアを開けて「ただいまー」と言った。いつも通りの所作で靴を脱ぎ、何食わぬ顔をして居間に入れば、シーツに胃液をぶちまける圭が目に飛び込んできた。画面越しで見るより凄惨で、神々しい天使に目を奪われる。思わず、息をのんだ。女が横を抜けて出ていくのを感じて、圭に駆け寄る。ドクドクと心臓が胸を打つ。努めて冷静に、「また吐いたのか」と言えば、悪態をつかれた。気にしてない風を装ってシーツの心配をすれば、あからさまに不機嫌になる。天使はいつでも自分が一番じゃないと嫌なのだ。
「俺風呂入ってくるから、片づけといて」
圭は立ち上がり、スマートフォンを一瞥して机の上に置いた。そのままぺたぺたと裸足で風呂場に向かう。頃合いを見計らって風呂を沸かしておいて良かった。圭がすっかり視界から消えると、すぐさま圭のスマートフォンを手に取った。ロックを解除して、さっきの女からのメッセージに目を通す。女は鬱陶しく何度も同じような内容を送りつけてきている。
『君、さっきの子? 俺、圭と一緒に住んでる直人っていいます』
素早く入力し、送信した。返信は来ないが、きっと見ている。俺は構わずさらに入力した。
『圭はいつもあぁなんだ。悪く思わないでね。ただ、君みたいな勘違いしやすい雌猿と釣り合うような人間じゃないから、大人しく身を引いてほしい』
次は、返信がきた。
『あんた関係ないでしょ。圭と話をさせて』
『実は俺たちの部屋、監視カメラがついてる。もちろん、さっきの君の裸も映ってる。一瞬だけど』
返信は来ない。『いつでもどこにでも送信できる状態だよ』と送れば、目に見えて狼狽える。嘘だと言いたくても、あの女は俺に裸を見られていないと思っていただろうから、咄嗟に言葉が出ないのだろう。
『もう圭に近づかないって、約束してくれる?』
女からの返信に満足して、圭のスマートフォンからその女の連絡先を全て消した。あとは送信履歴も全部消して、机の上に置き直す。
こっちは片付いた。あとは、天使の証だ。圭が汚物に拒否反応を示して口から零した、天使の証。俺はこれを片づけるのが一番好きだ。俺が捧げた供物が天使の胃に収まっていたのだと実感できるし、何より、天使の世話をするのは喜ばしいことだ。てらてらと光り、すえた匂いを発する天使の証を、シーツごと、大事にゴミ袋へと入れた。匂いだけで、その神聖さにくらくらする。これを見て逃げ出すなんて、やはり、人間はおかしい。少しだけゴミ袋の口を開いて、匂いを感じる。冬になったら、また彼女を作るのだろう。そして春に別れるのだろう。天使がまた吐き出せるように、たくさん料理を作ろう。次は吐き出すところを間近で見てみたいものだ。シーツに春までの別れを告げて、ゴミ袋を閉じた。あとは、そうだ、圭の着替えを脱衣所に置いておかなくては。
胃に優しい物を、と思ってお粥を作っていると、着替えた圭が風呂場から出てきた。「食欲ある?」と言えば、「あぁ」と生返事が返ってきた。圭は落ち着かなさそうにきょろきょろと俺の周りを見ている。出来たばかりのお粥を圭の前に置くと、「なぁ」と意を決したように声を掛けられた。
「お前、俺のことどう思ってんの」
珍しい話題だ。たぶん、風呂場であれこれ考えて悩んだあげく、結局真っ直ぐ疑問をぶつけるしかできなかったのだろう。不器用な圭らしい、核心を突く問いだ。俺はちょっと微笑んで見せた。まさか「天使」なんて言えるわけがない。言ったら最後、きっと圭は堕落してしまう。少しでも長く、出来れば永遠に、天使であり続けてもらいたいのに。
「圭は、俺の事なんだと思ってんの」
「幼馴染だろ」
「俺もそう思ってる」
圭が不満そうに口を尖らせた。その時に呟いた「俺の事嫌いなくせに」という一言に、思わず笑ってしまった。本当に、圭は子供のように純粋だ。信仰に好きも嫌いもない。崇めるか崇めないか、尽くすか尽くさないか、それしかない。くすくすと笑い続ける俺を見て、圭はいよいよ不貞腐れてお粥を啜った。圭の喉を通って、供物は胃に入っていく。あれがまた吐き出されるのだと思うと、背筋が震える。尽くし甲斐があるというものだ。ちらりと、圭がまたこちらを窺い見た。
「やっぱり、お前には温度を感じない」
どこか寂しそうに呟いて、目を逸らした。俺には何のことか分からないが、「熱くないか」と聞けば、「美味い」と言われた。
まだホモじゃない