みんなどーして生きていられるのかしら。そりゃあ世の中面白いことだってあるけれど、辛い悩みの方が比重が重いじゃないの。友達と喧しく話す人。ケータイと見つめ合う人。往来を歩く人。どれを取っても、何でもないような顔をしている。おかしいじゃない。みんな本当はうんと苦しんでいるはずなのに、なんだってそんな平気な顔をしているのよ。意味分かんない。
「あんた勉強は」
リビングのドアを開けてすぐに、お母さんが難しい顔をして言う。私は「うん」とか適当に返事をして部屋に向かう。
「成績そんなに良くないんだから、勉強しないと良い大学入れないよ!」
背中にそんな声がぶつけられて、私は急いで部屋に逃げ込んだ。
良い大学入って、良い会社に就職して、良い結婚相手を見つけて、良い家庭を築いて、それで、私はどうなるの。全部自分の人生なのに、社会が私の道を決めている。そんなものは置いてどこかへ行ってしまいたいのだけれど、代替案が見つからないから、こうしていつもくすぶっている。だって、それが正しい人生だし、正しい人生が一番良いのは当たり前だものね。結局私はどこにも行けないわけだ。
人が人の身体を持つ限り、出来ることは制限されるし、私の望みは譲歩せざるを得ない。空を飛びたいと思った人は、きっと自分の体一つで飛びたかったはず。妥協の結果飛行機ができたわけですね。そう。本当の夢を諦めるなきゃいけないのは、誰でも同じ。誰でも一緒。なのに、みんなは私と違う顔をしている。みんな暗い顔してくれていれば、私は安心できるのに。
気晴らしに外を見ると、雲が青空を少しだけ侵食していた。イライラしつつも抱きしめたクッションは投げず、ラジオを付けた。ガピガピと、ノイズが雷の真似をする。周波数が合った時、どこぞのバンドの曲が流れた。人生に対する愚痴染みた詩が、乱暴な音に乗っている。司会が言うには、今流行りの歌らしい。こういうのが大衆に受けているってことは、やっぱり皆どこかに行きたいんじゃない。なんで素面のフリするかなぁ。くだらないと思いながらも、変な歌が胸を打つ。こういう悩みも全部現実逃避って分かってるし、平気な顔してる人が正しいとも分かっている。でもさ、だけどさ。あぁ、神様、この遅い思春期持って帰って。
不意にラジオがパチンと音を立てた。漏電かとびっくりして、ラジオを見る。青白い電光がパチンバチンと、ラジオからどんどん漏れてくる。あまりの現実味の無さに動けない。みるみるうちに電光が集まり、形を作る。壊れたネオンのように明滅する。逃げようと考える間もなく、それは三つ編みの少女の形になった。光る、雷の女の子。その子はビカビカ眩しい目を瞬かせて、こちらを見た。目……うん、どこもかしこもビリビリしていて、それらしい物としか言えないんだけれど、一応ある。ただ、口がない。女の子は静電気の塊のような手でラジオに触れた。すると周波数がすごい勢いでぐるぐると変わった。ラジオが色んな局の音をブツブツと鳴らす。それが、しだいに言葉に聞こえるようになった。沢山のラジオの音声を瞬時に切り取って、自分の言葉を無理やり紡いでいるのだ。
『こんにちは』
少女が操るラジオがそう言った。
『私は雷の妖精です』
はぁ、そうですか。とりあえず「こんにちは」とだけ言っておく。
『天気の神様があなたを選びました』
「天気の? どういうことでしょう」
『人の身体から解放されたくはありませんか』
びっくり・どんぴしゃ・タイムリーです。いやいや、どういうことなのそれ。宗教の勧誘みたいに回りくどいのね。天気が何? 人の身体をどうだって? 何を言っているの妖精さん。
『あなたを風にしてあげます』
「風、ですか」
『風です』
風になって。ううむ、それはどこかで聞き覚えが。
「私、死ぬんでしょうか。それは死の宣告でしょうか」
『いいえ、死とは異なります。あなたの精神は身体を離れて風としてどこにでも行けるようになります。代わりに、あなたの身体には他の精神が入りますから、死ぬわけじゃありません』
「風になったら、もう戻れないのですか」
『はい。気象の一部となりますから、別の生命体へと生まれ変わるようなものです』
妖精さんは表情の分かりにくいお顔で、淡々とラジオをいじる。しかし、こんなビリビリくる子が人とは思えないし、冗談でもないような。
ちょっと振り返ってみる。私の短い人生の中に、私を引き留める物はあるだろうか。私を育てるのが義務の両親。上っ面の友達。名前も知らない近所の人。能面の民衆。私の事しか考えられない私。こりゃあ、無いなぁ。まぁ、良い転換点かもしれない。大した人生でもないし、人の身で叶えられる殊勝な夢もない。なら、風になるっていうのも、オツかも。どうせ、私の事だし。
『いかがでしょう』
妖精さんが急かした。ええい、ままよ。
「なります、風になります!」
『はい、おめでとうございます』
あぁ、飛び乗り乗車に成功したみたいな気分。
妖精さんはラジオを小脇に抱えて、私に触れた。ばちりと、文字通り全身に電気が走る。溶け出すような熱さが身体を巡る。全部の毛穴から煙が出たような気がして、思わず自分の身体を見回した。うわぁ、これは、想像以上。そこに、私の身体は確かにある。しかし、それは私が私を俯瞰している状態で見えていた。
『分かりますか、身体が軽いでしょう』
妖精さんがラジオを持ったまま、私の横を飛んでいた。部屋は足下に見えていて、私は天井すれすれを浮いている。妖精さんの話を振り返ると、ようするに今の私は精神だけの状態か。じゃあ、身体の私はどうしているのかな。じっと見つめていると、身体が不意に顔を上げた。
「いってらっしゃい」
笑顔の私が手を振った。面食らっていると、『あなたの代わりに風の妖精が入っています』と説明された。「あ、そうなんですか」と反射的に答えて、うん? と首を捻る。
「あの、私、風になったんですよね」
『そうです』
「厳密に言うと?」
『厳密に言うと、風の妖精です』
やっぱりか。なんだそりゃ。
「ってことは、私も人の身体に戻れるってこと?」
『はい。ただし、身体の持ち主の同意と仲介人が必要になります。今回の場合、同意はあなたの言葉で、仲介人は私です』
っていうことは、きっと元・風の妖精さんも妖精になる前は人間だったんだよね。じゃあ、どうして人間の身体に戻ろうと思ったんだろう。飽きたのかしら。『さぁ、外に出ましょう』と雷の妖精さんが言う。まだ身体の私が、楽しそうに、嬉しそうに、手を振っている。私は後ろ髪を引かれる思いで窓から外に出た。
外はすっかり曇り空で、風になった私は走り出したくなった。きっと私が走り出すと風が吹くのだと、なんとなく分かる。でもそれは私の自由で、走ってもいいし、走らなくてもいい。どこにでも行ける。風のように走れば、一瞬で山も越えられる。旋風にも、竜巻にもなれる。どこまでも自由で、身体が軽い。
『そうだ、これだけは覚えておいてください』
雷の妖精さんが私のラジオを我が物顔で使いながら言う。もういらないけど、ちょっとは遠慮してもいいんじゃないの。
『泣いたらだめですよ。雨雲を呼び寄せてしまいますから』
「雨雲が来ると何かいけないんですか」
『雨が降ります。風邪を引いてしまいます』
妖精でも病気はするんですね。天気の世界も大変だ。
『それでは、私はこれで。天気の神様は雲の上にいます。会いたければ、行ってみるのもいいですよ』
雷の妖精さんは私のラジオと共にどこかへ飛んでいった。あのラジオ、気に入ってたんだけど。
私の家が、眼下に見える。正しい道が何もないこの世界で、胸がすっきりしているのを感じる。空寒さと、解放感と、空虚を孕んだ胸の穴だ。
ちょっとだけ分かっちゃったんだよなぁ。私が笑顔で手を振っていた時、思うところがあったのよ。ほら、こう言うのもあれなんだけど、私の笑顔、可愛かった。素敵だったよ、私。そんな顔もできる身体だったんだね。今の私がどんな顔か分からないけど、雷の妖精さんは口が無かったから、たぶん私も無いんじゃないかな。喋ってる時も、身体全体から声を出しているような感覚だったし。だから、思っちゃったんですよ。笑ってる方が素敵だから、みんな笑ってるんじゃないかしら。
言われた側から、涙が零れた。雷の妖精さんは、きっとこうなると分かっていて、余計な事言ったんだろうな。分かっていて、すぐに消えたんだろうな。そうだよ。あんなラジオでも、私は未練があるよ。あんな息苦しい生活でも、無くなると寂しいよ。あんな私でも、私の大切なものだよ。次からは、きっと全部受け入れるよ。
ゴロゴロと遠くで雷が鳴る。雷の妖精さんが、鳴らしているのかしら。黒い雲が垂れ込めて、一人の妖精さんが私に近づいてきた。
「何をしているの。あんたが泣くから、気になって来ちゃったじゃない」
全身が黒い靄で覆われているその子は、たぶん雨雲の妖精さんだ。その子は私の顔を覗き込んだ。
「もしかして、あんた新入り? じゃあ早く逃げな。風の妖精なら、私が雨を呼ぶ前に逃げられるよ。風邪なんか引かれちゃ困るんだ」
私は首を横に振った。まだ、この家から離れる気にはなれない。それに私は風の妖精だもの。「子どもは風の子元気の子」って言うでしょう。「私は風邪の子元気の子」なんちゃって。だからね、大丈夫。
頭は冷静でも、涙はなかなか止まらない。雨雲の妖精さんが「大丈夫、そのうち慣れるよ」と肩を叩いてくれた。平気な顔ができるまで、もう少し。
大島弓子っぽく、と意識して