現実の終わり

 空にドラゴンが飛んでいて、町は色んな種族の住民が溢れかえる。ツンと尖った耳を持った人間だとか、頭が犬になったような人間。肌が灰色だったり、真っ赤な瞳を持った人間。剣を腰に下げている者もあれば、大きな斧を背に担いでいる者もいる。
 傍らに飛んでいた妖精は半透明で、まるでゼリーで出来ているみたいだ。その肌が崩れそうで、まだ一度も触れた事はない。
「今日も来たのね」
 妖精が微笑んだ。瞬間、世界の記憶が甦る。妖精の名はノエル。この国はブラウン。工業で栄えた先進国だ。あれがメルン人で、あっちはヘカッテ人。ドラゴンは国と国を繋ぐ交通手段だ。
「どう、名前は思い出せた?」
 ノエルがそよ風のような声で囁く。そうだ、僕は自分の名前だけが思い出せないのだ。
「いいや、まだ」
「ゆっくりしていければいいんだけどね。あなた達っていつもそう。すぐ消えちゃうの。早く思い出してね」
 責める風でもなく、慰める風でもなく、淡々と言う。心なんか無い、プログラムのように言葉を紡ぐ。
 僕は腰に下げた剣を撫でた。柄には赤い宝石がはめ込まれているが、鞘は質素な茶色だ。かちゃりと音を立てて数センチ刃を抜くと、陽を反射して金色に輝く。目を焼かれた気がして、すぐに鞘に戻した。
「今日はアリサにでも会いに行くの」
「そうだね」
 アリサは花屋の娘で、花屋というのは機械油臭いブラウンでは、女の子の憧れと言っても良い。そればかりかアリサは美しく、淑やかで温厚なために男たちの憧れでもある。
 アリサとはモンスター討伐の時に出会った。もちろんアリサは戦えない。討伐先でモンスターに襲われていた所を僕が助けたのだ。それから僕の旅の助けとなってくれている。
 アリサの花屋は大通りの外れにある。大通りは武器屋と防具屋が主で、娯楽に近い商品を扱う店は大通りに店を構えることはない。
「アリサ、いるかい」
「まぁ、いらっしゃい。そろそろ来る頃だと思って待っていたのよ」
 アリサが笑う。それこそ花が綻ぶように。僕は、少なからずアリサに惹かれている。金色の髪も、桃色の頬も、全てが甘い蜜に見える。アリサみたいな娘と懇意な間柄なんて、僕は誇らしい。
「ノエルもよく来てくれたわね。早く彼の名前を見つけてあげてね」
「もちろんよ。アリサの為でもあるしね」
 二人が笑い合うのを見ながら、意識が遠くなるのを感じた。「もう帰るのね」というノエルの声を合図に、完全に世界が遮断された。

 目が覚めるとベッドの上で横になっていた。名前なんか簡単に見つかった。机に散らばるノートに、携帯の個人情報に、母が呼ぶ声に。全てが僕の名前を明白に示した。
 カーテンを少し開けて、光を見た。灰色の電柱と、黒いコンクリートが広がっている。空は雲一つない晴天だ。僕は刃を鞘に戻すのと同じ道理で、カーテンを閉めた。
 ひとしきり震えた後、ふらりとゲーム機の電源を付けた。ピーというビープ音がして、僕はゲーム機を蹴飛ばす。次に本に手を伸ばした。カーテンの閉まった暗い部屋では文字が読めず、本を引き裂いて踏みつけた。パソコンを付けるが、こちらもビープ音がうるさい。床に転がっていたゲーム機をコンピュータに投げつけた。
 やっぱり僕は寝るしかない。寝るしかないんだ。あれはいつ考えた世界だったっけ。
 扉の前に本棚を配置して、僕はベッドに潜った。眠れずにいると、傍らにゼリーの妖精が現れた。
「また来てくれるのね」
「うん、僕にはブラウンが合ってる」
 ノエルが机の上のノートに目をやった。まるで故郷を見るかのような、物憂げな表情だ。
「名前は見つかった?」
 僕は少し躊躇ってから、カーテンの外の景色を思い出した。
「うん、佐藤シュウだ」
 目の前にブラウンの町並が広がる。横になっていたはずの僕はいつの間にか立っていて、アリサが微笑んで待っていた。その横には、いつもよりいくらか透明度の低いノエルが飛んでいる。
「おかえり、名前が見つかったのね。私にも教えて」
 アリサの顔が近付いて、唇が触れそうだ。彼女のふっくらとした唇の感触に想いを馳せて、手足がしびれた。頭に靄がかかって、何も分からなくなる。僕は必死に名前を探す。
「ギルベルトだ」
 アリサが歓迎のキスをして、僕は初めてノエルに触れた。


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